「健康生活の原理野口晴哉著作」を読む


           活元運動の一番の目的



「活元運動は病気を治す方法でありません(健康生活の原理p106)」
「この運動をやると病気が早く治るとか、お産が軽くすむとか、そういう目的をたてて、そのつも
りでやっている傾向が強いようです(同p98)」
「活元運動を痛みを止めたり、熱を下げたり、病気の治療法として用いようとすることは間違って
おります(同p99)」

 私は野口整体を勉強し始めた(10年程前)頃、上記の野口氏の言葉の意味がわかりませんでした。
活元運動を体を治すためにやってもいいのではないかと思っていました。いま各地で行なわれている
活元運動の会に参加している方でも、そう思っている人も多いのではないでしょうか。
 では活元運動の目的は何なのか?野口氏の言葉を引用します。

「体運動の正常さを維持するために行われるべきであります(同p99)」
「人間はもっと自然の体の構造を理解して、体の自然にまかせるのが本当ではないでしょうか
その具体的な手段として、活元運動をおやりになることをおすすめいたします(同p112)」


 野口氏の基準(大事なこと)は「体が自然であること」にあり、「治る・治らない」というところにはあり
ません。ですから「痛みのある・なし」「気持ちがいい・わるい」なども、活元運動の最終の目標にはなり
ません。
 では野口氏のいう「自然のからだ」とは何か?体の各処(五臓六腑・神経系・筋肉・骨・血液・・・)が
きちんとそのハタラキをまっとうすること。気分もスッキリとしてイキイキと生きられること。
 しかし忘れてはいけないのは、そのハタラキはいつも人の期待する方に向うとは限らないということ
です。場合によっては、人から見て悪くなることもあり、「死」にむかうこともあります。「自然」から見れ
ば、人の生死はどちらも自然なこと(生は○で死は×という考えは無い)ですから。
 自然に基準をおくということは、「死」も「痛み」も「病気」もきちんと受けとめることです。活元運動をし
ても「死」や「痛み」や「病気」の方向に行くことも有りますが、それを受け容れる覚悟が必要です。体が
悪くなることは、活元運動の力が及ばないのではなく、それも活元運動の範疇です。

「病気自体も、活元運動と同じものなのです。ひょっとしたら、病気も活元運動なのかもしれませ
(同p106)」
 
 活元運動をしてもしなくても、病気になって死ぬときは死にます。だからといって何もしないのは良い
生き方とは言えません。人は出来ることをするべきです。それは義務ではなく欲求だからです。人は生
まれながらにして、体の全力を発揮して生きたがっているのです。しかし、厳しい競争や社会生活の中
で、自然さを失い、体の力が出せないでいることが多いのです。体の自然さを取り戻す手段として活元
運動があります。
 野口氏は、活元運動をする人が、「痛みを緩和したり、治したり」といった目的を持つことを否定してい
る訳ではなく、そういう目的があっても、それが一番の目的にならないように「活元運動は病気を治
す方法でありません」と言われたのではないでしょうか。一番は「自然な体」ですから。


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