「健康生活の原理」を読む 3


「愉気で不安は伝わる」 のか

「歩けなかった子供のお父さんは、お父さんが愉気をすると、動けなくなるのです。心配を、不安を愉気していたからです。それ
で、『お父さんはお止めなさい。あなたが愉気しているのは“不安”だ』と言いました。お母さんは、何が何でも丈夫にしてしまお
うと“闘争心”を愉気していた。(健康生活の原理P36)」


 

上の文章を読むと、野口氏は不安を持って愉気をするとそれが相手に伝わるから止めた方が良いと言っているようにみえる。しかし、
ここではもう少し深く読む必要がある。野口氏は、手を当てる人の目的(姿勢)を問題にしているのではないでしょうか。ここのお父さん、
お母さんは「治る・治らない」という基準で愉気法を考え、子供を治すために愉気をしています。それに対して野口氏は、からだの自
を一番に考えているのですから、目的が全く違うといえます。

野口氏は、2つの観方をしている

老子はこう言っている

故常無欲、以觀其妙、常有欲、以觀其徼

 自然であれば(無欲な状態で観れば)、その物の本質(奥深い処)が観える。相対的に観ようとすれば(欲をもてば)、その物の形が
観える。・・・白石拙訳
 「欲」というのは単に欲望ということではなく、相対的な物の観方です。ですから「無欲」は、「一元論的な物の観方」=「自然」といえま
す。私たちは普段相対的な物の観方をしていますが、これは否定されることではありません。しかし「からだ」という自然を扱うためには
「無欲(自然・一元論的)」な観方も必要なのです。野口氏は二つの観方をすることの大切さを説いています。

「愉気をする場合に、そういう外から見えない心の内側のことを頭において手を当てるのと、見える処だけに手を当てて治そう
とするのでは大分違ってくる(愉気法1P103)」

「奥にある人間に手を当てることによって、こちらの奥にあるものと交流するのか、それともこちらの手と相手の体とが接触して
そこで感応するのか、この二つは似ておりますが違うのでありまして(愉気法1P103)」

「私たちが自分の内面を開拓し、人間を丁寧に知り、人間の裡にある生きている不思議さとか、心の働きの微妙さとか、そうい
うものを丁寧に理解して手を当てておりますと、同じ愉気をするということでも違ってくるのです(愉気法1P105)」

「普通の人が姿勢だといっていることが、私にとっては生命の形なのです(愉気法1P106)」


自然(無欲)になるヒント

 私たち凡人が、少しでも二つの観方(無欲・自然な観方)をするためにはどうしたら良いのか?「信心銘」と「荘子」にはそれぞれこう書
かれている。

絶言絶慮、無処不通・・・言葉を使わず、考えなければ、すべてがよくわかる・・・白石拙訳」

官知止而神欲行・・・五感を使わなければ、(本来からだが持っている)勘がはたらく・・・白石拙訳」


人は完全な自然には成り切れない


 出来るだけアタマを使わないことだというが、人にはアタマがある以上、比較・分別してしまうものです。それを無理して一元論的な自
然に近づこうとするのは、返って不自然です。信心銘にはこうも書かれている。

「ニ由一有、一亦莫守(相対的な物の観方はもともと一つの自然から出てきたものだが、だからと言ってその自然にこだわり、守り続け
ることもない・・・白石拙訳)」


大事なことはバランスです

 現実的に私たちができることは、、比較分別してしまう相対的なアタマを持ちながらも、それを生かしている自然のからだを意識して
生活していくことです。自然のからだを意識するということは、アタマの中だけのことでなく、活元運動や、愉気というからだを使った訓
練を通して意識されるものです。


私の結論・・・「不安があっても愉気はできる

 身体の自然を目指すという目的がはっきりしていれば、多少不安があっても愉気はできます。不安が伝わるのをおそれて愉気をする
のをためらうことがあれば、モッタイナイことです。

                         

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