「治療の書」を読む

 「治療の書」には健康とは何か、整体指導者はどうあるべきかが説かれている。以下「」内の太字は野口氏の原文、下に解釈(忠実な訳ではなく、野口氏の文を私がどう受け取ったか)を述べる。


健康とは 治療とは

「生命の自然に順ふに於いてのみ、生くるに生くる道ある也(4項)」

 健康とは何か、整体指導者はどうあるべきか。その答えは簡潔である。「自然に順(したが)う」ことである。健康とは「自然に順う」ことであり、整体指導とは「自然に順う」ことである。


「治療といふこと その治りゆくを経過する技術也(5項)」

 「自然に順う」ということは、「治す」ことではなく、「経過」させることである。なぜなら身体はいつでも治る(或いは死ぬ)方向で働いているのだから、それを邪魔することなく、必要であれば全うできるように協力することである。


「治療のこと自然に行ふ也。之放置に非ず 工夫に非ず。神を以て偶し、目を以て視ず。官止まるを知って 而も神行かむと欲する也¢ウ手傍観、自然に非ず 万物の自然に随順する也(29項)」

 治療を「自然に行う」と言っても放っぱらかしにするのではなく、あれこれと技術を駆使することでもない。
 荘子の「臣以神遇,而不以目視,官知止而神欲行。」の如くである。「目で以て視るのではなく、目を超越したレベルで視ること。五感をむやみにはたらかせないことを知れば、その時に必要なことが自ずとできる(白石拙訳)」
 ここでいう「神」とは、人間の技術・知識を超越した力のことであり、換言すれば「直感」である。


自分を整える

治療する人 何時如何なる時に於ても 心静かに 息深くして直感的に行動出来る心に生く可き也〜中略〜知多く 学深く しかも勘鋭くして治療のこと行なふこと出来る也。されど記憶で一ツパイになりてその時そのやうに動けざる人は その知捨て、その学より放れて、直感する明鏡の心を先ず得べき也(43項)」 

 治療とは勘だけでなく、知識や技術も合わせてできるものである。しかし必要な行動がとれない人は、知識や技術よりも、まず直感を磨くことだ。では直感をどう磨くのか。


  
「治療のこと先づ自分を静かならしむる也(18項)」

 直感を磨くためには、自分を静かにすることである。


「治療する人 自分の息を静かに乱すこと無く保つことに〜中略〜治療する人 息静かなれば 受くる人自づから静かになる也(89項)」

 自分を静かにするとは、息を静かに保つことである。自分が静かになれば、整体を受ける人も静かになっていく。


「耳に聴えずとも 澄みし心には感ずる也。眼には見えねど 心静かなれば判る也(45項)」

「治療のこと気を感じて始めて為すを得る也。気は見えざる気見るに至って治療のことある也。〜中略〜気を感ずれば裡なるはたらき自づから知るを得る也。又心のこと自づから判る也(18項)」                                            
 
自分が静かになれば、普段には感じられない「気(五感では感じ取れない情報)」が、判るようになる。


「養生とは自然に生くること也。裡の要求に生くること也。裡の要求を感ずること第一也(33項)。」

 身体の裡より発せられる声(要求)を聴き、それに従うことである。


整体指導



「相手の全体の動きより傾向を直感し、その動きに添ひて無理なきやう導くこと也〜中略〜既に現れたることに従ひて工夫すれば、いつも変化の後を追ふ也(38項)。」
 
「動かぬ心を感じ 見えぬ故障を感じ 言わぬ訴えを聴く(53項)」

「生命の自然を会し、之に順って行はる。人間を感ずることなくその体の構造究めても殻撫で操法たるにすぎず(83項)」

「人間を全とし一として観る(98項)」


 直感を主にして整体指導を行うこと。


「彼の心に健康への灯を点じ、彼の進む可き道を指示し、彼の健康への道を拓いてやること(57項)」

 健康とは、自分で作り出せることを教え、その方法を伝える。
  *素晴らしい。この本の中で一番感動した言葉。こういう生き方をしている人が指導者であってほしい。

「相手に不幸を見ず 悲しみを見ず 病を見ず。ただ健康なる生くる力をのみ見る也(58項)」

 「生くる力」とは、自然の力である。相手の中にある「生くる力」に焦点を合わせる。


「導くということ 技によりて為すに非ず 言葉によりて為すに非ず。ただのり超える力 裡にありてのみ その力 相手に喚び起すこと出来る也(59項)」

 「のり超える力」とは、自然の力である。自身(整体をする人)がその力を持つことで、相手の裡にあるその力を喚び起すことができる。


「自分の死生に動じないようにならねば治療といふことはできない(95項)」

「天によって生き 死すといふことが腹に這入ってをらねばむづかしい(95項)」


 人は自分の力で生死を超えることはできない。それ(生死・病・運命等)と対立するのではなく、自然に順う(受け容れる)ことによってのみ、(生死を超えて)生き切ることができる。


治療の動機 


「人の苦しむのを見ておられぬ人が自分の心の平静の為施すもので、それ故たとへ施療したとて恩を与えたり慈悲を施すことでは無く、ただ治療する者の気持ちを満たし、心を安らかならしむるものなのです(78項)。

「治療を行ふは自然也。人が人を治すに非ず、人はその在る あるに在る也。その在る あるに在らしむること 治療といふ也(128項)。」

「我 我無くしてのみ治療あり。
治療といへること 我が行ふに非ず。人に施すことに非ず 治すことにも非ざる也(131項)。」

「人の為ならず 世の為ならず ただ我が息の靖らかなる為也(132項)」

 
治療の動機は「自然」である。相手の為でもなく、ましてや儲けや生活の為ではない。
 「自分」が治療しているのではない。自我(欲)を無くしたときに、「自然」と一体(自然に順う)になり、(人の思惑ではなく)「自然」のハタラキ(意思)として、治療が行われるに過ぎない。


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