気気についての解説



目次

  • 気気の要点の解説

  • 気気の効用

    気気の気持ちよさ/気が下がれば意欲は自然に湧いてくる/自然に少しは小欲知足になる/現実から一旦離れる/気気の効果は長持ちしない

  • コミニュケーションとしての気気

    一期一会を味わう/コミニュケーションの苦手な人でも大丈夫/気の上がっている人には手をあてよう/気は伝わる/「うける」だけでも気気

  • 気気をするとなぜ気が下がるのか

    気気それ自体にある力/上記以外の理由


気気の要点の解説


  気気について何か疑問を持ったり悩んだりした時には、三つの要点に戻って下さい。多くの場合この中に答えがあります。

気気の要点

  • 1 ただ手をあてる
  • 2 ただ手をうける
  • 3 結果は気にしない


『ただ手をあてる』というのは、「相手のからだを良く して あげよう」だとか「痛みを緩和させてあげたい」などと思わずに、『ただ手をあてる』ことを目指す、ということです。

『ただ手をうける』というのは、「スッキリと気持ち良くなりたい」だとか「痛みが取れたらイイ」などと期待せずに『ただ手をうける』ことを目指す、ということです。

『結果は気にしない』 というのは、たとえからだや気分があまり変わらなくても『気にしない』ことを目指す、ということです。

 

これらの要点は、厳格に守らなければならない、というものではありません。これらは『目指すべき方向』であり、気気の実際時には忘れて頂いて構わないのです。一生懸命に目指し過ぎることも、気が上がることになりますから。期待や目的はあって当然なのです。そういう『想い(雑念)』があっても、少しくらいならば気にせずに、そのまま手をあてて下さい。しかし『想い(雑念)』が次から次へと連想を続け、大きくなってしまった時には、意識的に『ただ手をあてる・ただ手をうける』を目指して下さい。『ただ手をあてる・ただ手をうける』を目指すことは、それ以上『想い』が大きくならないように、ブレーキの役目をします。同時に、間違った方向に行かないように、ハンドルの役目もします。


気気の効用



気気はその効果を得ることを一番に考えているのではありませんが、気を下げた結果として得られる感覚は大事にしたいと考えています。


気気の気持ちよさ

気気の気持ちよさは、お金で買える類のものとは違います。温泉に入ったりマッサージをしてもらうのも気持ちが良いのでしょうが、気気の気持ち良さは質が違います。自分のからだやこころの深い処が満たされる感じです。 気気というのは何も特別なことをしているのではなくて、ただ人が正気に戻ると言いますか、本来の自分に近づくことをやっているだけです。人は本来自分らしくいれば、生きているこ とだけで気持ちが良いものなのです。気気には大きな刺激やスリルがあるわけではありませんが、自分が自分らしくなることによって、こころの奥深い処が満足できるのです。

気が下がれば意欲は自然に湧いてくる

ちまたではよく「意欲が無い」という言葉を聞きますが、それは意欲が無いというよりは、意欲が出る状態にないだけです。気を下げてノーマルに近づけば、自然に少しづつ意欲が出てきます。生きていること自体、意欲を形にしているのですから。 よく本などに「プラスのイメージを持ちましょう」などと書かれていますが、なかなか難しいことです。気気の会では無理してプラス思考のイメージを持つようにするのではなく、気を下げることで、マイナスのイメージをノーマルに戻すことを目指します。ノーマルで十分なのです。ノーマルになると自然に 自分の中から湧いて来るものがあります。それが本当の意欲です。

自然に少しは『少欲知足』になる

私たちはいつでも希望や期待を持っています。「ああなりたいなぁ〜」「あれが欲しいなぁ〜」という具合に。それ自体悪いことではなく否定されることでもありません。しかし度を超すと往々にして問題が起きます。それを手に入れるために借金をして返せなくなったり、自分が一番になるために他人をないがしろにしたりと。とかく行き過ぎた欲には問題がつきものです。『少欲知足』というのは気が上がっているときにはできないものです。欲を抑えることはなかなか難しいことです。頭でそう考えてやろうとしても、欲には勝てません。気気の会では、欲は欲のままで手を付けずにおいて、気気をするのです。自ずと 気が下がり、欲が少しは落ち着くはずです。気が下がれば無理をしなくても自然とその言葉や行動が、それほど常識の範囲からは外れなくなるのです。

現実からいったん離れる

人付き合いは、関係が上手く行っている時には良いのですが、一旦こじれると修復が難しいときもあります。気が上がっていると、相手の話した言葉や態度に固執してしまい、なかなか相手を許せなかったりします。気気では、とりあえず気になっていることは置いておいて、気を下げることだけを目指すのです。気を下げて物事を見れば、それほど大した問題ではなくなることは良くあります。気が上がっているときには、物事を現実以上に大きくとらえがちになるものです。  

気気の効果は長持ちしない

気気をして「からだ」が軽くなり、「こころ」がスッキリしても、一日もたてば、「からだ」もまた重たくなるかも知れません。「こころ」もまた不安になったり、憂鬱になるかも知れません。気気の効果は長持ちしないのです。実は当然のことと言えます。人がその時にどういう風に「からだ」や「こころ」を使っているのかということが、そのまま「からだ」と「こころ」の上に現れるのですから。気気が終わり日常の生活に戻れば、それがそのまま現れます。したがって気気は気気をしている時だけが気気なのです。


コミニュケーションとしての気気

一期一会を味わう

 人付き合いは難しいものです。相手とどれくらいの距離をとって付き合ったら良いのか、悩む方も多いでしょう。自分の立場や相手の肩書きなどによって、付き合い方が変わることもあります。  気気の会における人間関係は簡単です。上下関係はなく、皆平等です。気気を長くやっている人も、はじめての人も同じ立場で行ないます。普段の職場における肩書きや経歴などはまったく関係ありません。  気気の会では誰と会う時にも、初めて会う時のようにできるだけ先入観を持たずに、自然に、ありのままにその人を受け入れようとします。『ただ手をあてる・ただ手をうける』というのはそういうことです。それは旅先で出会う人との触れ合いの如くです。いっとき、良い時間を共に過ごし、終われば分かれる。利害損得が無いので、付き合いが深くてもサッパリしています。こういう付き合い方は、日常にはあまり多くはありません。気気ではそれを味わえます。

コミュニケーションの苦手な人でも大丈夫

コミニュケーションの苦手な人でも気気はできます。気気は話をしなくてもできるからです。『ただ手をあてる・ただ手をうける』だけですから。気気をした後は、手を当てた人も受けた人も気が下がっているので、自然と話もしやすくなります。

気の上がっている人には手をあてよう

物凄く気の上がった人は聞く耳を持っていないので、その非常識な行為に対して、常識や道徳を説いてみても、なかなか通じません。気の上がっている人を鎮めることのできるのは、気の下がっている人だけです。頭ごなしに理を説いてみても通じ ないのは、気の上がっている人の、その上がっている気に合わせているからです。それは火に油を注ぐ様なもので、二人ともますます気が上がってしまいます。まずこちらが気を下げて、 その下げた気を武器にして、上がった気の消火に当たるのです。気気をすれば(手をあてれば)良いのです。いくら気の上が っている人でも気気をして(手をあてて)くれる人に対しては、文句は言わないものです。

気は伝わる

誰でも気の上がった人よりは、気の下がった人と付き合いたいと思っています。相手の気が下がっていると、こちらも安心します。表情や雰囲気が柔らかいと、それを見た人は安心します。これは相手の気が自分に伝わったと言っても良いでしょう。もちろん自分も周りの人たちに影響を与えています。自分が気を下げれば、周りの人がそれを気持ち良く感じるでしょう。誰かが下げた気は、必ず触れ合う人に伝わります。その気がまた誰かに伝わり・・・という具合に人から人へと伝わり、広がっ ていきます。

『うける』だけでも気気

しかしながら私たちは、いつも機嫌よく暮らしているわけではありません。悩みや怒りが自分を大きく支配して、とても『ただ手をあてる』ことなどできないと思うこともあります。そういう時にはたとえ「手をあてる」気分にはなれなくても、「手をうける」ことはできるでしょう。それでも構いません。「手 をうける」だけでも立派な気気です。


気気をするとなぜ気が下がるのか


1 気気、それ自体にある力

『手をあてる』という行為(形)そのものが持っている力です。その力を本能と言っても良いでしょう。それは人間を生かしている力であり、万物を生かしているハタラキであり、それを気気の会では 『気(き)』と呼んでいますですから、とにかくまず、手をあてて頂きたいのです。「何のために?」なんてことは置いておいて、機嫌が良くても悪くても、調子が良くても悪くても、とにかく手をあてて下さい。手をあてれば自然に気が下がるのです。頭では他のことを考えていても、気は下がるのです。 気気は相手に対して自然に集中することができます。自分で自分の「からだ」に手をあてるよりも、他人の「からだ」にあてた方が集中できるのです。また、自信が無くても気気はできます。気気という行為(形・姿勢)自体にその力があるのです。その形をとれば誰でも同じように変わるものを『型』と言いますが、気気の型は 『気が下がる形』 なのです。ですから私たちは、その型を尊重すれば(第一に考えれば)良いのです。上述したのが、身体面での型ならば、『ただ手をあてる・ただ 手をうける』を目指すことは、精神面での型ということができます。頭の中のどこかには期待や目的などの雑念があったとしても、『ただ手をあてる・ただ手をうける』を目指すと心身が変わるのですから、これもまた型と言えます。

2 上記以外の理由

他人に手をあててもらうということは、自分という人間を認めてもらうことになり、本能的に満たされます。丁寧にやさしく手をあててもらうと、それをより一層強く感じます。 自分が手をあてた人がゆるんでくれた(気が下がった)ということは、自分を受け入れてくれたということです。自分が少しでも人の役に立ったという存在性(価値)を認めること >ができます。 「周りの人と上手く付き合って行きたい」という想いが満たされます。『ただ〜する』というのは、技術的に難しくなく、安心してできます。日常生活は『〜しなければならない』ことが多く、 プレッシャーがかかります。加えて少しでも上手くやろうという意識が強くなり、気が上がりやすいのです。スキンシップ(触れ合い)の気持ちよさがあります。 物理的な『気』の作用(中国医学でいう気の作用など)。

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