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2019年4月14日

アタマの意識だけでイメージをするのではなく、からだを以てイメージをすることだ。アタマの意識だけで周りの風景と一体化することは難しいが、からだの力を抜くことができれば、周り(自分以外のもの)との結合はし易くなる(実際にできているかは判断するものがないから分からない。しかし実感としてはそう思える)。 

2019年4月7日

人はだいたいにおいて、他人よりも自分が良ければよいと思っている。他人の社会的な成功やスポーツなどでの勝利を素直に喜ぶことはできない。しかしキチンと「立つ」ことができると、脳のモード(基準)が変わるからなのだろう、他者のことを素直に認められるようになるのである。誰かの丹田が満ちたり、良い状態になることを心から喜べるのである。


2019年3月24日

悩んでいる人は、逃げ場所を探そうとする。誰かが助けてくれるのならば、それも良いのだが、実は自分の中にも「逃げ場所」はある。元々誰にでも二つの世界があるのだが、普通の人は一つの世界しか無いと思っている。一つの世界しかなければ、嫌なことがあっても、逃げ場所がなくて、ツラクなる。二つの世界と言ってもそれは、全く別のものがそれぞれあるのではなくて、同じものである。ただ物の観方が違うから、世界が違って観えるのである。一つは「相対的に観ようとする(物事を比較・分別する)世界(普段の私たちの日常の世界)」。もう一つは、「一つにつながっているように観ようとする(自他の区別のない)世界」。私は「立つ」練習の時には(どの程度か分からないが)「ひとつにつながった世界」に入っているという自覚がある(以外の時間は相対的な基準を持った世界にいる)。「相対的な世界」でツライことがあった時、もう一つの「つながっている世界」に行ってみると、結果的にツラさが緩和することがある。理屈ではなく体験してみれば、そういうものだということが分かる。一つの世界にしかいないで、どうしてもう一つの世界が理解することができるだろうか。

2019年3月12日

上手く「立つ」ことができると、からだの中(全身)に空気が入っているように感じる(五臓六腑が詰まっている感じではなく)。しかも、からだの外側の空気と、からだの内側の空気の質に違いを感じない。と言うことは輪郭とは、ただの枠に過ぎないことになる。枠だから外したり付けたりすることが自由にできる。外せば周りとの一体感も味わえるし、付ければその中にいる自分も感じることができる。

2019年3月11日

鳩尾(みぞおち)が硬い人は、そこにサザエの蓋のような硬さがある。蓋を取れなければ柔らかい身が出て来ないように、鳩尾が硬いままでは本来の自分が出て来ない。


2019年3月6日

「立っている」時の某イメージ。からだの輪郭に小人がぎっしりと並んでいる。からだの輪郭は、国に例えれば国境のようなもの。小人たちは国境警備隊のように外に向かって立っている。鳩尾を弛めると彼らが一斉に回れ右をして、からだの中心に向く(背中を外へ向ける)。からだを守る必要がなくなって、力が抜ける。
  

2019年3月4日

普段の自分は、外側(自分以外の周囲)に向かって、自己を主張しようとする。自分を認めてもらいたいと思っている。それは悪いことではないが、過ぎればバランスを崩す。時には「自分」に戻ることが必要だ。
鳩尾を弛めると、意識が外から内(自分)に向かう。結果、それは自分を整えることになり、整った自分の身心の状態に満足する。よって外へは向かわない(求めなくなる)。だからと言って、先に「外に求めないような意識」を持ち、自分を規制するのも無理がある。鳩尾を弛めればいい。鳩尾を弛めることは、意識の方向を180°変えることになる。


2019年2月17日

立っていると、いろいろな感覚が順に出て来る。たとえば、みぞおちを弛めると、丹田腹式呼吸が始まる。そこで丹田腹式呼吸にこだわらなければ、全身で呼吸をしている感じがして来る。そこで全身呼吸にこだわらなければ、輪郭が消えて周りとつながっているような感じがして来る。それにもこだわらなければ、再び分節された自分がいることに気が付く。また分節された自分にもこだわらなければ、再び周りとつながっている感じがして来る。最後の2つ(周りとつながった大きな自分と、分節された自分)は練習している間中繰り返す。しかもこの2つは時間的に前後せずに、同時に存在するようだ。今のところ、こういう感じであるが、また変わって行くだろう。大事なことは、一つの感覚やイメージに留まらず(こだわらず)に、次に行くことである。

2019年1月18日

私は常々、人の姿がその他の人々の姿と似ていないことを、おかしいと思っていた。たとえば、動物であるならば、その姿を影絵で観れば、「猫だ」「蛇だ」「鳥だ」と分かる。もし同種の似た体格の動物を10ほどスクリーンで映したとしたら、個を判別するのは難しいだろう。それが人間だったらどうだろう。十人十色で見分けることができるのではなかろうか。それくらい人は違う。それは個性ではなく、歪みである。偏りがなくなれば、人は互いに似て来る。立ち方やからだの使い方が似て来るはずだ。それには個人の「意識(物の考え方)」が変わることである。
数多くいる動物たちの中で、人間だけが見本となる形を示していない。偉大だと言われている皇帝や、大統領、武将、学者、思想家、哲学者、宗教家の中で理想的な身体を持っていた人はいたのだろうか。持っていたのであれば、何故それが模範として伝わらなかったのだろうか。それが出来なかった人間には根本的な問題があるのではなかろうか。


2019年1月6日

鳩尾を弛め、丹田腹式呼吸が始まると、最初は小さなソフトボールのような丹田が、徐々にバレーボール、バスケットボールのように大きくなってくる(マリモが成長するように)。最初は球状に感じることができず、からだの前側と・後ろ側は強く感じる。私は前側にはキャッチャーのプロテクターを、後ろ側は亀の甲羅を付けているような力強い感じがした。更に広がりが進むと、最終的には全身が丹田になる(或いは丹田に包まれる)。全身が程よい弾力で満ちるそれを「全身呼吸」と言ってもいい。これはまだ最終地点ではない。

2018年12月5日

鳩尾を弛めると、180度方向が変わる。からだが緊張から弛む方向へ変わる。外へ向かう気持ちが内へ向かう。内というのは、自分のからだやココロ。外は誰かが作った価値や物など。最終的に今の自分に満足する。

2018年11月1日

水落を弛めると、丹田から力が湧いてくるのを感じる。湧水の最初の一滴が生まれるように丹田に小さな力が生まれ、それが繰り返されて強くなる。

2018年10月31日

上手く「立つ」ことができると、「自然の強さ」を獲得することができる。その強さは筋力を鍛えることによって得られるようなものではなく、強弱という比較を超えたところに「立つ」ことによって得られる強さである。




2018年8月17日

教室で気気をした(互いに手を当てあった)後、教室の雰囲気がグーンと良くなる。「ただ立つ」練習をしたときよりも良くなる。何故だろう。触れ合うことの力だろうか。私が考えているのは、手を触れることは手段であって、それを通してココロ(意識)が動いたから変わるのである。だから触れなくてもココロが動けば変わるはずなのだ。からだが変われば、雰囲気も良くなるはずなのだ。それがそうならないのは
@想像力がない
A意識とからだの連絡が鈍い。要するに、思ってもからだが反応しない。
繰り返し練習することで、敏感にしていくしかない。

2018年5月14日

「イメージ」は今ある意識に「足して」いくことではない。今ある意識が偏っているから、それをニュートラルに戻すために使うものである。もし、最初からニュートラルな意識を持っているのであれば、新たにイメージなどする必要はない。もっともそんな人はいるのかどうか分からないが。
私の考えるニュートラルな意識とは、物事を相対的だけではなく、一つにつながっているように観ることである。なぜなら、その時のからだの状態が良いからである。「心身一如」により、意識の影響をからだは受ける。


2018年4月13日


「悩み」はアタマの世界、老子の「徼」。からだは老子の「妙」。身心が分かれられないように、相対的な世界と全部がつながった一つの世界もまた、同時に存立する。いくら悩んでもそれはアタマの世界、もう一つの世界があると思えば、ずいぶん楽にはなるだろう。


2018年3月25日

窓から桜の見える部屋で「立つ」と、桜に意識が行ってしまう。静かにイメージをしていくと徐々に桜の存在が目立たなくなってくる。周りの建物や民家の屋根と桜が同じように並んでいるように感じる。
自分が観ているという自覚も薄くなる。自分が主体ではなくなってくるのだろう。

2018年3月4日

  世の中のことがすべて相対的(比較・競争・価値の有無などの基準)だったら、息苦しくて、つまらないことだろう。幸い私は小さい時に友や家族と、相対的ではない基準で過ごして来たので、そういう基準を信じることができる。立つ練習の時に、そういう基準(すべてが繋がっている)をイメージをすることに抵抗がない。


2018年2月2日


人には動的な喜び(快感)と、静的な喜びがある。「立つ」ことを通して、自分が自分らしくなっていくことは静的な喜びである。日常の多くの喜びは外にある刺激を求める「動的」なものだ。
静的な喜びは、自分が内側へ向かっていくと得られる。



2018年1月14日

  太極拳の基本は「立つ」ことである。歩行練習ではないし、24式太極拳でもない。野球の基本は「立つ」ことである。キャッチボールではないし素振りでもない。



2017年12月27日

  からだは一つにつながっている。分けているのは言葉とその意味である。「五体」や「腕」、「足」などと名付けなければ一つでいられたのに。
上手く「立てた」とき、アタマと首の境が分からなくなり、胸と腹の境がなくなり、腿と脛が一本になり、足の裏と床の境がなくなる。
常識を取り外さないと上手く立てない。上手く立てれば常識が外れる。







2017年12月21日

立ってから考えればいい。立つ前の考えは本当ではない。



2017年12月18日

立つということは、「天地人」の「人」をキチンとしようとすることだ。


2017年12月17日

今日の「立つ会」に参加してくれた人に、「ホームページを見ただけだと、ストイックな感じもしますね」と言われた。なるほど、そういう見方もあり得るんだと思った。実際はキツイことはなくて、やればやるほど気持ちよくなっていくものなのだが…。またスポーツとは性格が違うものだ。

「立つ」と言葉が出て来る。立っているときに、或いは後から。それは自分がほしかった言葉だ。


はじめに

 「立っている」ときなどに、ふと思ったことなどを書くことにしました。文章は1行・2行など短いものが多くなります。できるだけまとめずに、断片的なままに現わしたいと思っています。まとめたり、良く書こうと思ってしまうと、真から離れてしまう気がするからです。
 内容は「立つ」ことを中心に「健康」や「生き方」について
読者は、ある程度興味を持ってくれている人だと想定し、既存のブログよりも専門性が強く、クセのある?ものになると思います。思考中のことも書いていくので、内容が誤ることや、前後の一貫性を欠くこともあるでしょう。しかしたとえ数年かかったとしても、1つの独自性・普遍性のあるものを打ち出すことができれば意味があると思っています。
 私は野口整体を学び、健康観はそれに拠る処が大きく、老子や荘子、禅の影響も受けました。しかし、臨済がそうしたように、絶対の価値を何処にも置かないようにしたい。何かを掴んだとしても、そこに居坐らず、次に向かって動き続けたい。生きているということは「悟り」さえ次の瞬間には消してしまうほどたくましく、新鮮でなければならないと思うからです。書いたこと(文)を私自身が捨てていくように、皆さまもそうして頂ければ嬉しいです。